クラッシュ ネタバレあり感想&映画脚本分析

クラッシュ
上映時間 112分

監督:ポール・ハギス
脚本:ポール・ハギス、ボビー・モレスコ

グラハム (ドン・チードル)ロサンゼルス市警察の黒人刑事
リア (ジェニファー・エスポジート)グラハムのパートナーのヒスパニック系刑事

ファハド (ショーン・トーブ)ペルシャ系の小売店主
ドリ (バハー・スーメク)ファハドの娘で医師

アンソニー 黒人の自動車強盗犯
ピーター 黒人でアンソニーの仲間

リック (ブレンダン・フレイザー)白人のロサンゼルスの地方検事
ジーン (サンドラ・ブロック)リックの妻で白人、有色人種に強い偏見

ダニエル (マイケル・ペーニャ)メキシコ系の錠前屋
ダニエルの娘

ライアン (マット・ディロン)人種差別主義者の白人巡査
トム (ライアン・フィリップ)ライアンの相棒、リベラルな白人巡査

キャメロン (テレンス・ハワード)黒人のテレビディレクター
クリスティン (タンディ・ニュートン)キャメロンの妻で黒人

ログラインは、クリスマスを間近に控えたロサンゼルスで発生した1つの交通事故を起点に、多民族国家であるアメリカで暮らす様々な人々を取り巻く差別、偏見、憎悪、そして繋がりを描いた話。(wikipediaより引用)

クラッシュは、接点のない7組の人物たちをうまくクロスさせながら、関わりを持たせ、人種差別をテーマに、丸一日の話を展開する、非常に優れた脚本です。
オムニバス映画のようにパートが分かれているのではなく、進行形でクロスさせていくところが素晴らしい。
テーマに対する答えは、映画の中で明確に示されていません。ただ、観客それぞれに様々な思いを起こさせてくれる。東京もLA同様に様々な人種が増えています。そこでは差別的なこともあります。その逆に、日本人に対するいわれのない批判や差別もある。この映画はそういった縮図をうまく捉えていて、勉強になります。
邦画でもこのような良質な本質を捉える作品を描ける作家や監督、こういった作品を作りたいという製作者が増えることを祈って、分析していきたいと思います。

クラッシュ

<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>

テーマを掘り下げる!

この映画のテーマは、人種差別です。アメリカはそういった差別に対する意識が日本よりも進んでいて、人種差別者に対する法律、厳しい目があると思われがちですが、私がアメリカにいた体験談としては、クラッシュの映画のように、けっこう露骨に違う人種に対して嫌悪する人は周りにいました。
それも白人が有色人種に対してという場合よりも、有色人種同士間の方が盛んだった気がします。
アジア人が黒人を嫌悪する。ヒスパニックがアジア人を嫌悪する。あるいは日本でもあるように、中国人や韓国人が日本人を嫌う。日本人や台湾人が韓国人と中国人を嫌う、などけっこう色々です。
語学学校へ行くと、たいがい同じ人種でかたまります。そしてその輪に違う人種の方がどう入って仲良くなるかは、ある人種に対する嫌悪が共通すると急に接近する。そういうのを目の当たりにして、人類平和は絵空事だなと感じたのを覚えています。

で、この映画でも描いていますが、どうして嫌悪から差別へとつながるかは、やはり相手を理解できないからだと思います。
たとえば、映画に出てきたアジア人。中国人だと思いますが、ああいうタイプは日本でもおそらく嫌悪の対象になる。まったく理解できないんですね。自分は正しくていつも相手が悪い。悪いことをしていても、みんなしているから自分だけいわれるのはおかしいという論理にすり変える。そのくせ身内にだけは異常なほど甘い。こういう感覚は日本人にはあまりない。追突事故されたヒスパニック系刑事のリアが「私が悪いの?」と戸惑う感じは日本人も同じでしょう。しかし彼女はこう言います。「アジア人に追突されたと調書に書いて」と。ここではおそらくアジア人は、日本人も中国人も韓国人も台湾人も一緒くたにされる。
日本人として腹が立ちますよね?
そういう状況を次のシーンで出すあたりが良く作られている。
ペルシャ人のファハドが拳銃を買いに店を訪れたとき、母国語で娘と話していると、店主に「ヨー、オサマ!」とアラブ系のテロリストと揶揄され、口喧嘩になる。
この両者の気持ちがわかるからやるせない。

さらに、自動車泥棒のアンソニーが中国人の車を奪い、その荷台には人身売買で連れてこられたタイ人やカンボジア人などを目にして、彼らを中国人という。彼には、タイ人も中国人も区別がつかない。その知識がないし、アジアの国や人種について何も知らないから、そういう事が起こる。
もし、日本人が人身売買をしていると間違って吹聴されれば、たちまち日本の評判は悪くなり、他人種から嫌悪され、それが集団となり言動にうつれば、差別へつながっていきます。
差別の発端は、噂レベルの恐怖心から増大していくことが多い。

正しい情報が、世の中全てに回っているわけではありません。自分の常識が、世界の常識では決してない。国内にいるとまったく気づきませんが、日本について本当に訳分かんないことを本気で信じてる外国人はたくさんいます。

差別は、正しい理解が相手にされないうちに、妙な噂が広がり、それを見聞きした人間が不安を募らせ、むやみに相手に恐怖を持った結果です。
そういう人の不安や恐怖を操り、嘘をふれ込み、その国のイメージを悪くするプロパガンダを国をあげてしている国だってあります。まるで正義の顔をしてやってきて、嫌いな国を平気で貶める。そんなことをすれば、たちまちそこに住むその人種は差別やいじめの的になります。そういう想像力の欠如した国があり、声の小さな人種、特に日本人や仏教系のおとなしい国は割を食います。
そして戦うこと、言い返すことを避けると、さらに評価は下がります。世界では、YES、NOをはっきりさせる国が多数です。意見を言わないというのは肯定したというのと同じです。
奥ゆかしさという美学は、世界では弱点になる。
ですから、海外へ出た日本人は戦うことを学びます。つまり、クラッシュを避けないようになる。
冒頭に、交通事故後のグラハムが、うわ言のように言います。
「人々はたいてい車の中にいる。でも触れ合いたいのさ。ぶつかりあって何かを実感したいんだ」
最近のアメリカも内向きです。9.11後、人種に対する不安や恐怖が拭えていないことが原因。アメリカが世界の警察となることは割りに合わないことと思い始めている。人種間の争いに介入するのはリスクしかなく、避けるべきことだと思っているので、人々のぶつかり合いが少なくなっている。果たしてそれでいいのか、という問題提議になり、タイトルになっているんだと思います。

難しいテーマだからこそやる価値がある!

おそらく邦画の場合、こういった題材を扱うとき、イデオロギー先行になります。そうなると結論有りきなので、観る前から萎えます。イデオロギーが同じお仲間だけが喜ぶだけの作品になりがちになり、日本は人権で遅れています、差別はやめましょうというありきたりな啓蒙で終わります。
イデオロギーは作者の一方的な思い込みが強く、集められた資料も自分の意見と近いものしか選ばなくなる。まったく共感ができない人や事実に直面している人には本当に駄作以外の何ものでもなくなってしまう。
だから難しい題材を扱うときは、真実はこれだけと押し付けるのではなく、多角的な視点を持ち、その答えやどう思うかは、観客に託すという丁寧な作りをしないと、難しいテーマは観客の中に入ってきません。
クラッシュは、その多角的な視点と対比がうまく出来ていました。

特に、露骨な人種差別主義者のライアン巡査と、リベラル思考の新米巡査のトムの対比は面白い。
ライアンは、父親の介護と仕事のうんざりする日々を生きている。父は、会社を経営していて黒人を雇っていたが、少数民族優遇の法律になり、会社と妻を手放さざるえなくなった。ライアンには、なぜこの国をつくった我々白人が追いやられ、お人好しの父が割を食い、こんな惨めな生活を自分たちが強いられなければいけないのかと思っている。父のために病院に行けば、融通がきかない黒人に追い出され、パトロールに行けば、セレブな黒人夫婦が高級車を乗り回している。彼の根底にあるのは、差別というよりも現状への不満。格差という恨みのほうが強いことがわかる。差別の裏には、貧困が隣り合わせという裏テーマが示されている。
一方、いまどきのリベラルな新米トムは、人種差別するライアンに同じ白人として嫌悪します。彼は、おそらく教育で差別はいけませんと教えられている世代です。それは悪いことではありません。しかし、臭いものに蓋で、本質を見る機会を逸しています。あれはやってはいけない、あんなことを言ってはいけない、と差別してはいけないという強迫観念から、逆に相手を遠ざけることになり、本質を知ることができない。だから、黒人のTVディレクターの車を2度目に止めたとき、本来の警察の職務をせずに、車の中にいた自動車泥棒を逃がしてしまう。これでは本末転倒なんですね。差別をしない自分が偉いと勘違いしている。その弱い正義感が露呈するのが、あの射殺事件につながるんです。上辺だけの正義は、実にもろいという意味です。
逆に、ライアンはどうか。彼は差別主義者というより、現状に不満なんです。もちろんその苛立ちを有色人種へぶつけるのはお門違いです。ですが、職務は全うする。目の前の危機には、体を張って仕事をする。本当の差別主義者なら、ああ黒人かと見捨てます。それは絶対にありえない。彼のキャラクターでは。この皮肉が面白い。
観客に突きつける感じがいいです。どっちに正義があるんでしょうか?と投げかける。

ライアンはたしかにひどいです。職権乱用し、セクハラをするのは言語道断です。でもひどいゆえに、ぶつかる機会も多い。ぶつかるから、様々なことを知り、体験もして、回避もできるんです。
トムは表面的にいい人です。でもぶつかることを避けるゆえに、何も知らないんです。知らないゆえに、恐怖と心配だけは増大し、土壇場でとんでもない行動に出てしまう。
こういうケースは多くあります。
もう一つの皮肉として、ギャング風の黒人2人組が向かいから来て、避けたことで、白人セレブのジーンは車泥棒の標的にされます。彼女の立場からしたら、ほれ見たことかという結果になる。一方、襲った側は、避けられた、差別にあったと思い込んで狙いを定めました。
この場合はどっちが悪いですか?
意識的に怖いと避けたジーンがいけませんか?
それとも差別を許せないからと犯罪をする黒人の若者がいけませんか?
一方、夫のリックは気にしません。秘書は黒人だし、鍵を変える男がタトゥーだらけのヒスパニックでも平然としている。なぜなら彼には彼の人種に対する思惑があるから。
しかし妻のジーンは恐怖から、ヒステリックに怒る。有色人種全てが敵の対象になる。
いったい誰が正常ですか?
観客は判断つかないんですよ。どの立場もわかるし、かといって全て肯定もできない。
こういうシーンをバンバン観客に突きつけるあたりが本当に見事です。

ぶつかるとは、相手を知るチャンスでもあるんです。
みんな仲良くしましょうほど、怪しいものはないという教訓です。
ぶつかることは、人間同士当たり前なんです。自分とは違うものに警戒するのは動物として自然。拒むことも権利です。いつも笑顔でいなさいというのは、不自然なんです。偽善的な行いほど、悪に近いものはない。怖いからこそ、人は学ぶんです。
世の中は偽善に溢れ、ぶつかることを避けるあまり、本質から遠ざかり、些細なきっかけで誤解が生じ、争いになる。余計に生きづらくなっている。映画はそう訴えているのではないでしょうか。

ラストが素晴らしい!

黒人のアンソニーが盗んだ車の中にタイ人やカンボジア人がいた。それを一人500ドルで買うと、車に売りに来たときに言われますが、彼は売らずにチャイナタウンに彼らを下ろす。さんざん、この国は差別もあるし、嫌なことも多いと言ってきた男が、彼らを逃がした。新たな人種がアメリカへ舞い降りたことを歓迎している。アンソニーは彼らに金を少し渡し、「アホな中国人」と言ったあと、笑みを見せます。
たった一日にして、1つのきっかけから、いろんな人が影響しあい、変化を経験する。人は一夜で考えや思い込みをひっくり返すことができる。良くも悪くも。
ラストの雪は、砂漠のLAには珍しいという意味です。監督は、そんなミラクルがあるのだから、人間だって変われる。いつか本当の意味での差別がなくなる奇跡を見たいということを伝えたかったのではないでしょうか。
人はぶつかって、相手を知る。きれい事だけでは、相手を知ることはできません。
日本は今、ぶつかっています。裏を返せば、相手を知るいい時ですから、いつものように避けてあいまいにするのではなく、ぶつかって話し合い、他国を知り、自国を伝える絶好の時。10年前に作られた映画クラッシュを、今の日本人が観るといいと思いました。

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