ファイト・クラブ ネタバレあり感想&映画脚本分析

ファイト・クラブ
上映時間 139分

監督:デヴィッド・フィンチャー
脚本:ジム・ウールス

ナレーター<僕> (エドワード・ノートン)
タイラー・ダーデン (ブラッド・ピット)
マーラ・シンガー (ヘレナ・ボナム=カーター)

ログラインは、不眠症に悩むサラリーマンの主人公が、出張中の機内で知り合った石鹸の行商人タイラー・ダーデンと出会い、殴り合いをしたのをきっかけに、『生』の実感に魅了され、夜な夜な喧嘩をするファイト・クラブというグループを結成する。ところが、タイラーがファイトクラブを反社会的な集団に変貌させていくことに危機感を覚えた主人公は、タイラーのある計画を止めようと対決するうち、タイラーの正体は、実は”僕”だったと気づく話です。

なにやら続編『ファイト・クラブ2』が2015年に公開されるそうなので、1999年製作の『ファイト・クラブ』を少し分析したいと思います。
エドワード・ノートンは、ファイト・クラブを撮影する前に、これも傑作『アメリカンヒストリーX』という白人至上主義に傾倒する役でとんでもないマッチョに肉体改造したのを、数週間でファイトクラブのこの役のためにナヨナヨ体型にしたと、たしか話していた記憶があります。ハリウッド俳優はスゲーなとそのとき感心しました。
役者たちの熱の入れ方が尋常じゃない様子も感じられるオススメの映画です。

ファイトクラブ

<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>

主人公は何に不満だったのか? なぜ暴走したのか?

デヴィッド・フィンチャー監督は、この作品について「かなりの人がうんざりしないようだったら、僕たちは何かひどい間違いをしたっていうことだ」と語っていたそうです。
エドワード・ノートンもそれに賛成し「この作品は、こういう意味なんだ、これがテーマなんだと言われて、満足して、映画を見終えるのではなくて、「さて、どう思う?」と問いかけることだった」と語っています。

好きな映画であればあるほど、その映画について決めつけたがります。でも製作サイドの意図はまったく違うんですね。
どう思うか、観客自身が考えなさいよ、ということらしい。

で、この作品で共感するというか、腹に落ちてくる点というのが、主人公が不眠症になった原因の一つに、日常生活で『生』を実感できない不満があるということだと思います。
昨今の動機なき殺人のように、なんだか生きているのに『生』を実感できない人がいる。
たしかに自分はこの世界に存在しているのに、まるでそこにいないかのような感覚に陥る。これを映画では、おそらく不眠症という状態にわかりやすく置きかえているのだと思う。起きてんだか、起きてないんだか、毎日頭がすっきりしなくて、ずっしりと重い。この状態から主人公は抜け出したい。
仕事をし、物を買い、それに囲まれ、稼いだ分、また消費する。
確かな実感と物がそこに存在するはずなのに、なぜか『生』だけはどうやっても感じられない。
そんな不満を抱えながら通勤・通学の電車に揺られている人は、どの時代、どの年代にも一定数必ず存在する。
そしてそう思うことが間違っているのではないか、という常識、あるいは知識を持ちすぎている(知能指数が高い)人ほど、その『生』というものに真正面に向き合いすぎて、精神が蝕まれていく。
主人公もそういった人物です。極めて常識的で、真面目で、知能指数も高い。

彼は辛くて病院に行くが、医者に「カノコ草を噛んで運動しろ」といわれる。
それでは納得いかず、病気でもないのに、生と死の間にいる重病人たちが集まる自助グループへ参加して、確かに自分は『生』の側にいることを認識し、安心を得ていくようになる。
医者に、睾丸癌患者の会合に出てみろと言われた後、タイラー・ダーデンの一コマがサブリミナルで右上に挿入されています。
ここが主人公の分かれ道なんだと思います。
大抵の人間は、医者に「カノコ草を噛んで運動しろ」と言われたら、カノコ草を噛んで運動しますから。
しかし主人公は、『生』というものを真面目に捉えすぎて、これでいいのか? ちゃんと生きているのか?という自分に不満がある。
自分を変え、もっと新しい自分になることで、改めて自分の『生』を生きられるんじゃないか、ということに引き寄せられていく。
自助グループに参加すると、彼は「毎晩僕は死んで、毎晩僕は生き返った。よみがえりだ」と語っている。
彼は、自分の『生』を、自分のためだけに使いたいんですね。
言いかえると、『自分らしく生きたい』というのが常にある。
それを出張続きの主人公は、「今日はシアトル空港、次はシスコ、LA……、今はボルチモア空港。時差の1時間を足したり引いたり。こうして人生の時間が減っていく」と現状の不満を語っている。
そして不満の極みになり、反対側の動く歩道に、タイラー・ダーデンが動く存在として現れ始める。(主人公がついに彼を生み出した瞬間)
タイラー・ダーデンは、主人公の理想像として動き出した。

実際の事件で、同級生を動機なく殺害した加害者少女の卒業文集にこんな一節がある。
<僕は何度心から生を叫べるか、正の字をつけて数えておこう。>

彼女も『生』というものに囚われすぎている。
「なぜ『生』を実感できないと不満なのでしょうか?」と言ってくれる人物に出会えていたら、その人の人生は少し変わっていたかもしれない。
だって、誰もこの世界に『生』なんか実感して生きている人はいませんから。
もしくはこの映画のように、
「『生』を実感するには、破壊することでしかない!」と勇ましい人物と出会えば、その人は反社会的になっていくでしょう。
つまり、頭の中でいっぱいになっている常識、それに対して適応できない不満がある人に、
「君が信じ込んでいることはそれでいいのか?」
「実はこっちの世界もあるぞ」
と、囁いてやると途端にその人は開眼してしまう。
こういうタイプを宗教の信者にするにはもってこいです。過去にも高学歴の人がカルト教に妄信したことがありました。

主人公とタイラー・ダーデンの機内での出会いはまさにそんなやりとりです。
タイラー「飛行機でトラブルが起きたとき、なぜ酸素マスクが必要なのか?」
僕「呼吸のため?」
タイラー「酸素でハイになるのさ!」と、酸素マスクをつけて微笑みを浮かべる機内冊子を見せる。
主人公は、そこでガツンとやれちゃうんですね。もちろん鵜呑みにしたわけではないけれど、そういう自由な発想をする人がいるんだーと胸にガツンときちゃう。
さらに、石鹸から爆弾が作れることを知ると、
僕「本当かい?」
タイラー「その気になりゃね」
僕「一回分の友達の中で、君は今までの最高だ!」
タイラー「頭いいんだな」と皮肉。気付かず、
僕「ありがとう」
タイラー「それで何か得が?」
またガツンとやられちゃう。マヌケな顔をしていると、
タイラー「そのまま磨きをかけろ!」
これは、「そのままでいいのか!」という皮肉を主人公に浴びせて、奮起させるセリフなんですね。もう開眼寸前。
で、家に戻ると火事になっている。
『生』の実感の代償として、集め続けていた物たちがあっけなく燃えて消えてしまった。
泊まるところがなく、自助グループで出会った、同じように病気でもなく参加しているマーラ・シンガーに彼は連絡をする。が、彼女の声を聞いた途端に電話を切る。
彼の葛藤として、ここで変わるか、このままでいるか、という岐路に立っている。物がなくなり、自分をリセット出来るチャンス。
もし変われるならば、それは自分と同じマーラではなく、先ほど出会ったばかりのタイラーだと思い立ち、連絡をする。
こうして次々と主人公の常識を打ち破っていくタイラーという人物を信奉し、彼は暴走していく。

ファイトクラブ ブラピ

なぜ、タイラー・ダーデンを追っかけたのか?

ファイト・クラブを結成後、主人公は、肉体的な痛さを体験し、血まみれになる爽快に酔いしれ、『生』を実感する。
しかし、結構早い段階で気づく。
「生きることを実感できた。でもそれは、実際にファイトをしてる間だけ」と語る。

『生』の実感に持続力がないことを知る。
他にないかと探したのが、タイラーとなって求めた『性』のほう。
マーラ・シンガーをとことん気が済むまで激しく抱く。

これは、デヴィッド・フィンチャー監督が描きたいものの一つに関連する。
監督は、原作の自己解放や自己破壊によって新しい自分を創造するというテーマに加え、男性性に比重を置いている。
映画を見ていて、うん?と思う箇所に、度々、父親と主人公の関係が出てくるので調べてみると、
エドワード・ノートン曰く、
「フィンチャーは、男たちと、彼らの居場所を失ったような感覚、文化における自分たちの役割が失われてしまったというアイディアにとても焦点を絞っていたと思います。父親の不在とその影響について、です」
つまり、”『生』の実感”もそうだけど、”『男』っていう実感”もこの主人公はないんじゃないかと考えたわけです。
男の存在や父親の威厳の象徴として、暴力、マンチョ、性で女性を制する(絶倫)、という強さの暴走を描いている。
だから、睾丸癌患者が出たり、彼らの計画を邪魔する奴に「タマを切るぞ」と脅したりする。男のシンボルの危機に執着している。
さらに、映画のラスト、マーラと手をつないで爆破を見届けた後に、タイラーの股間がどアップする一コマがインサートされている。あれもフィンチャー監督のメッセージなのでしょう。
タイラーに男の過剰な理想像を被せたわけだ。

で、性のほうも飽きちゃうわけですね。
いつまでもやってらんないぞ、となり、タイラーは主人公の手の甲の皮膚を焼く。自傷することでさらなる『生』を実感しようとする。
「痛みを感じろ!」「痛みから逃げるな!」「人生最高の瞬間を味わえ!」
「子供にとって父親は神。神である父親が子を捨てる?お前は神に好かれてない。父親に。憎まれている。俺たちは神の望まぬ子なのさ!」
「いつか死ぬってことを恐れずに心を叩きこめ!」
「すべてを失って心の自由を得る」
「おめでとう。どん底に一歩近づいた」
と、『生』の実感と『男』を実感させるために、主人公の中にいる父親をあの手この手で追いだそうとする。
もうこの辺りから、主人公は、タイラーについていってない。むしろもう怖い存在として一歩引いてる。

そして、タイラーは組織内でカリスマ性をどんどん高め、疎外感を主人公は感じていく。
破壊活動が街中で始まりだし、主人公はそれを知らない。
84分あたりで、タイラーが、
「職業が何だ。財産が何の評価に?車も関係ない。人は、財布の中身でも、ファッションでもない。お前らはこの世のクズだ!」とカメラ目線で観客と主人公に向けて語る。
タイラーの暴走は、観客にまで及ばせようとする。
自分が正しいと思っている人ほど、わからせようとより暴力的になる典型が描かれる。

そこから、マーラと主人公の会話もかみ合わなくなる。
僕「僕らの関係は君ら(タイラーとマーラ)と違うんだ!」
マーラ「僕ら?君ら?それ何のこと?」
観客も、あれ?と思い始める。
主人公は、ついにファイトクラブで殴り合いしても、何も感じなくなってしまう。
タイラーが主導する「騒乱計画(プロジェクト・メイヘム)」という破壊工作を彼だけが知らない。
なぜか皆が、自分をタイラーと思い込んでいる。
ようやく、タイラーはもう一人の自分だと気づく。
そして、マーラが犠牲になるとわかって、騒乱計画を止めようとタイラー・ダーデンを追いかける。
動機としては、マーラを助けたいというのが一番強いと思います。
なぜなら、マーラは女性版の元々の彼、として描いているので、自分を救いたい、という考えで動いているんじゃないかなと考えられる。
さらに、暴走するタイラーの計画を止めることで、フィンチャー監督がいう、男はこうあるべきだというタイラーを通して描く過剰な思い込みから解放すること、つまり主人公は父親を追い出すのではなく、タイラーを自分から追い出すことがクライマックスになる。
(どうやら、ファイトクラブ2は、マーラと結婚し父親になった主人公と息子とタイラーの話になるらしい。父親にこだわりがある感じか?)
こうして主人公は自ら口の中で発砲し、タイラーから自分を取り戻した。
マーラに「これからはすべて良くなる」といったのは、遠回りしたけれど、自分を受け入れ、生まれ変わった自分自身に向けて話しているのだと思います。

好き嫌いが分かれる作品ですが、傑作だと思います。

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