ゼロ・グラビティ ネタバレあり感想&映画脚本分析

ゼロ・グラビティ
上映時間 91分

監督:アルフォンソ・キュアロン
脚本:アルフォンソ・キュアロン 、ホナス・キュアロン

ライアン・ストーン (サンドラ・ブロック)
マット・コワルスキー (ジョージ・クルーニー)

ログラインは、宇宙で船外作業中の女性宇宙飛行士が、スペースシャトルに宇宙ゴミが衝突し、宇宙空間に投げ出されてしまうのだが、それでも地球に帰還する話。

ゼロ・グラビティは、第86回アカデミー賞作品賞を惜しくも逃した作品ですが、監督賞を見事受賞されました。
映画館で同じ映画を2回以上めったに観ないのですが、映像の美しさやどうやって作ったのかという興味、話の面白さもあって、劇場で3回観ました。もちろん3Dで。
そしてDVDになり、再度観ましたがやっぱり面白いので、なぜ面白いと感じたのか分析していきたいと思います。

ゼロ・グラビティ

<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>

どうやって宇宙に漂流された人が地球に戻ってこれるの?

脚本は、キュアロン監督親子で書かれていて、息子のホナスさんが「逆境をテーマとした、ジェットコースター的な緊張感が常に漂い、かつ観客が感情移入して感動できる作品を作りたい」と言ったのが発端で、親子で試行錯誤を重ね、宇宙飛行士が何もない宇宙空間にクルクルと飛ばされていく絵が思い浮かんだそうです。
なんかうらやましい親子ですねー。

で、その息子の言ったとおり、ストーリーは実にシンプルで、どうやって生きて地球に戻れるのかというだけ。
だけどそのシンプルさがすごくよかった。宇宙に、女性が一人放り出されて、無重力という不自由な環境の中で、地球との交信も途絶え、どうやって戻ることができるのかは、我々には容易に想像つかない。これ以上の逆境を私たちが体験することも不可能だ。
必然と興味がわく。興味を抱かせた時点で、作り手の勝ちだ。
いかに観客に、この続きを観なければいけないというアイデアがあれば、どんな映画でもたいていうまくいく。
逆に、興味を失わせた瞬間に観客は離れる。
離れるリスクで一番大きいのは、セリフだと思う。
セリフだけでストーリーやテーマを語ってしまう場合、観客は想像を巡らせ、その先の展開を結びつけてしまう。
だから、この映画は極力セリフをそぎ落とし、一難去ってまた一難という展開に、どう主人公が対処するのかということに注目ができた。

昨今の邦画やドラマを見ていると、とにかくセリフ過多。しかもバカ正直なセリフばかり。それが観客に響かない。
なぜこんなことが起きるのかというと、脚本家自身が、その映画で何を伝えたい、何をしたい映画なのか理解できていない、あるいは、その映画は何であるのかということを、脚本を読む側の理解度が足らなすぎるかのどちらかだろう。
脚本を書く力(脚本家の質)を指摘されることが多いが、それと同時に脚本を読む力というのはもっと重要であると思う。日本でこの映画の脚本を持って歩いても、手を上げてくれるところは少ない気がする。

映画を見終わった後、観客はどういう感情になるのか。どういうふうに感じて欲しいのか脚本家は考えて作っている。(はずだ!)
いったい脚本家はどんな思いを込めて書いたのか?
それを受け取る心が観客にあれば、映画を観た以上の感動を味わうことができるだろう。

時代は、サバイバル!だから映画のテーマもサバイバル!逆境を乗り越えろ!

主人公は、ライアン・ストーンという女性宇宙飛行士だ。
目的は、地球へ帰還すること。
しかし彼女が、地球に帰還しなくてもいい事情を抱えていた場合、観客の感情移入に大きな影響を与える。

ゼログラビティ

映画が始まり、13分に、コワルスキーとはぐれ、一人ぼっちになったライアンに感情移入した直後、コワルスキーと再会したライアンとの会話で、彼女が生に執着がないことがわかる。
娘を失い、その死から立ち直れず、今を全く生きていない。
そんな女性がどうやって地球に戻りたいと思うのか。
そのまま死んで、娘のところへいくほうが彼女にとってはラクであり、むしろそのほうが望むべきもののように感じられる。
だが、1幕直前に、なんとしてでも生きようと模索するコワルスキーが無限の宇宙空間に投げ出されてしまった。ライアンは彼のロープを掴む。彼女には、船体へつながる巻きついたコードが足に絡まっている。たぐり寄せれば、コワルスキーは生きられる。だが、彼の体はどんどん遠くへ流れていく。ライアンはロープを放さない。一人になるのは怖いという感情があるから。しかし、道連れにできないと考えたコワルスキーは自らロープを放し、彼女に必ず生還することを誓わせ、死を覚悟する……
彼の犠牲で、彼女にまた地球へ戻らないといけないという目的を復活させた。それははじめよりも強い目的を持たせ、2幕へ突入する。

なぜこんなまわりくどいことをしたのかというと、テーマにかかわるからだ。
主人公のライアンが、過去に振りまわされて、今という”時”に、生を感じていない。
これは現代社会を生きる多くの人を表すメタファーになっている。
26分、コワルスキーとの会話で彼女はこんなことを話している。地上へいたら何してると思う?という問いに彼女は沈んだ声で答える。
「ただ運転する」
「どこへ行くために?」とコワルスキー。
「ただ走るの」
「大切な人は?誰か空を見上げて君を想ってる?」
娘を失った彼女の生活は、
「目覚めて、仕事に行き、ただ運転する」
そう言って彼女は地球を物憂げに見つめる。

これは彼女の実生活を語っていながら、多くの我々の孤独を表している。
「ただ運転する」は、<ただ生きている>と言い換えられないだろうか。
「どこへ行くために?」という答えに、我々はなんと答えるだろうか。
「ただ走るの」<ただ生きるの。目的なんかないわ>
「大切な人は?誰か空を見上げて君を想ってる?」
「目覚めて、仕事に行き、ただ運転する」
そういう孤独な生活を送っている人は多いだろう。愛する人もおらず、毎日決まった時間に出勤し、代わり映えのない仕事をこなし、窮屈な電車に揺られ、また次も同じ朝を迎え、ただ生きている。
孤独な旅。そんな生き方をしている人は多くいる。地球にいながら、まるで宇宙に放り出され、無重力の中を彷徨い、漂流している。
そんな逆境に生きる観客を連れて、2幕へ突入する脚本になっている。
2幕〜3幕では、次から次へと起こる災難に、ライアンは生き残りをかけて、積極的に力強く変化していくところが見どころだ。

随所にあらわれるメタファー!

意識的に、生死の対比をメタファーにする場面が多く見られた。
宇宙=死、地球=生
燃料切れのソユーズにいるライアン=死、交信先から赤ん坊の声=生

ライアンは、プロットポイント2で、「もうじき娘に会える」と死を選んでしまう。
すると漂流したはずのコワルスキーが戻り、ソユーズへ入ってきた。
そして地球帰還はムリだと頑ななライアンに彼はいろんな言葉で諭す。そのどれもが比喩になっている。<>で囲った部分は、上のセリフがこう解釈できるのではないかと考えた。

「地球に戻るか?ここにいるか?ここは居心地がいい」
<外の世界に触れるか?自分の殻の中に閉じこもっているか?自分の殻の中は居心地がいい>
”ここ”とは、ソユーズの中。ソユーズは、ライアン自身が殻に閉じこもっているという比喩。

「あらゆるシステムをシャットダウンし、明かりを消す」
<あらゆる機会を拒み、選択肢を自ら捨てる>

「目を閉じ、心も閉ざす。傷つける者はいない。安全だ。生きる意味がどこにある?」
<目の前の出来事を見ようとせず、何もしないで心を閉ざす。いつも一人で孤独なら誰も傷つけることはない。だけどそんな人生に生きる意味がどこにある?>

「娘は死んだ。これ以上の悲しみはない。だが問題は今どうするか」
<過去につらいこともあっただろう。君にとってそれが全てで悲しかっただろう。だが問題は今どうするかじゃないか>

「もし地球に戻るなら、もう逃げるのはよせ。くよくよせず”旅”を楽しめ」
<もし明るい未来を生きたいなら、もう自分の殻の中に逃げるのはよせ。くよくよしてないで、人生を楽しめ>

「大地を踏みしめ、自分の人生を生きろ」
<今を、生きろ!自分の人生を生きろ!!>

そうして彼女は、地球に戻ることを決心する。
生きるために出来る限りのことをやった彼女は、大気圏突入にする際、笑った。
あとは運命だ。死ぬことも生きることにも恐怖はない。
彼女は自分で生き方を選択した。
そうすれば景色は変わる。
起きた出来事に対して、たとえどんな逆境でも、その人がどう受け止め行動するかで、人生の景色は何色にでも変えられる。
人間は無限の可能性を秘めている。だから生きろ。今を必死に、未来を楽しんで!というテーマに、観客は感動する。そんな思いで、脚本家は書いたのではないだろうか。

アルフォンソ監督「テーマは逆境とそれを通じての再生の可能性。新しい知識を求め、生きのびることによって再生することができる。水や母なる地球、“つながり”を示すかのような体に巻きついたコードといったメタファーの存在は、ライアンというキャラクターを作る上で大きな意味があったね。一方のマットは対照的に地に足がついた、人生を心から愛している人物なんだ。サンディとジョージと3人で、なるべくセリフを少なく、かつ常に動き続けながら、エモーショナルな旅を明確に見せるために話し合いながら作っていったよ」

今という時代をもがき、苦しみ、それでも前進したい人はこの映画に共感するのではないでしょうか。オススメなので、ぜひご覧ください!!

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