ゲーム ネタバレあり感想&映画脚本分析

ゲーム
上映時間 128分

監督:デヴィッド・フィンチャー
脚本:ジョン・ブランカトー、マイケル・フェリス

ニコラス (マイケル・ダグラス)
コニー (ショーン・ペン)
クリスティーン (デボラ・カーラ・アンガー) ウエイトレス
ファインゴールド (ジェームズ・レブホーン) CRSの部長

ログラインは、何不自由していない投資銀行経営者ニコラスは、48歳の誕生日に弟のコニーからCRSという会社が提供する“ゲーム”の招待状を受け取り参加をするのだが、そのうちCRSに父の代から築いた財産を奪われてしまい、取り戻すため、自分の人生をかけて挑むことになる話。

この映画がうまいと思うのは、視聴者が考える展開を裏切ることにあると思う。
つまり、どんでん返し、観客の誘導に成功した作品だ。

(以降の文章は、ネタバレしています)

『ゲーム』は、タイトル通り、ゲームだったのだが、これはゲームではなく、まさに主人公の身に起きている事件なのだと、主人公と観客を錯覚させる。その展開に、納得感がでるよう伏線を張り巡らせている。それに気づいた観客は、なるほど、ほーほー、それが狙いだったかーと納得し、その答え合わせが、映画の3分の2の位置にあり、主人公のニコラスも”ゲーム”の本来の狙いに気づいた!という展開をいったん見せる。そして、3幕(棺桶から起きる)からは主人公と観客は同じ気持ちになって、奪った者たちから取り戻すという彼の動機を応援することになる。
ところがどっこい、ラストでまたひっくり返る。
ああそうだった、これはゲームなのだ、とすっかり騙されていたことに気づき、気持ちよく納得ができる。
そしてゲームを招待した真の狙いがわかったとき、改めて、「なるほど」と思う。
だから、この映画は「おもしろい」となる。
人は、納得できることに対して、「おもしろい」と言う。
伏線のはり方、観客の誘導の仕方、構成がお見事だった映画「ゲーム」を分析していきます。

映画 ゲーム The Game
<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>

日常→非日常→日常へ

わかりやすい3幕構成で描かれています。
1幕で、投資家として成功するニコラスの日常を見せる。
彼は、自殺した父と同じ年齢になり、財産は築いているが、離婚し家族とは疎遠で、金でつながる友人はいても信頼できる友人はいない、弟ともうまくいっておらず、48歳の誕生日を一人で迎える孤独な状況にいた。彼は亡き父を目指して(知りたくて)その年齢になるまでがんばったが、本当に得たものはなんだったのかと戸惑いがある。そんなとき、誕生日プレゼントとして、久しぶりに会う弟コニーからCRSという会社が提供する「人生が楽しくなる」というゲームの招待状を受け取る。

2幕で、ゲームの世界、非日常がはじまる。
ゲームと現実を分け、軽い気持ちでいたニコラスだったが、次第に現実においてトラブルが増え、CRSはゲームを仕掛けているのではなく、彼の命と財産が狙いだと気づくと、彼はパニックになり誰も信用できなくなっていく。そして、信じた女性にも裏切られてしまった。
彼はおよそ感情というものを露わにしない。笑顔もなければユーモアもない。物事において、それは利するのかしないのかだけが価値基準であり、築き上げた人脈も金の切れ目が縁の切れ目になっている。所詮、相手もそういうもの(金に群がっているだけ)だと考えている。それは家族間においても同じなので、元妻に離婚されたことは納得がいっていない。
だから、金を誰かに奪われるというのは、彼のアイデンティティや今までの人生の否定であり、憧れの父親との別れを意味する。そこをCRSは攻めてくるので、彼は守るために、戦いに巻き込まれざる得ない状況になっている。

3幕で、彼は現実を受け入れ、自ら行動し、新たな日常へ戻ろうとする。
棺桶から目を覚ますニコラスというシーンは比喩としてわかりやすく、彼の甦りを意味した。
知らない土地で目覚め、金を失い、知り合いもいない彼が頼ったのは、母国であり、父の形見の腕時計を捨てることだった。そして、見知らぬ人に頭を下げて、自分の状況を語って頼み(心を開き)、協力者を見つけアメリカへ戻る。
今までは、金があり、人を使うことができた。だがそれは、頼ることとは違っていた。人に頼るというのは、信頼関係がなければできず、そこに損得はない。そう学んだ彼が、心を開いて、真っ先に会いに行ったのが元妻だった。彼は心を閉ざしたまま家族と接し、自分が家族をいかに信頼していなかったのかを思い知り、後悔と懺悔をして、彼女に許しを請う。
それと同時に、当時の父の気持ちも理解できた。彼もまたニコラスと同様、心を閉ざし、誰も信用できず、人が集まっても一人ぼっちの世界に耐え切れずにこの世を去ったのだと。

しかし、彼はまだ自分のアイデンティティでもある築き上げた(守った)財産を奪われたことを許せないでいる。それは今までの否定につながるからだ。
彼は、自らCRSに対決を挑んでいく。
ところが待っていたのは、文字通り”ゲーム”の続きだった。
パニックの彼は、ゲームであることを信用ができず、発砲。弟を撃ってしまった。
彼は、まだ父の亡霊に取り憑かれていた。結局、誰も信用できなかったのだと思い知る。
弟は、ただ自分の誕生日を祝おうとプレゼントしてくれただけだったのに……
他人の厚意を信じられない自分に失望し、父の飛び降りた場面と重なって、彼はCRSのビルの屋上からダイブする。

ところが、それこそが、弟コニーの願いだった。
父と同じように、誰も信じられず、人生を楽しまないまま死んでくれるな、みんながみんな、兄の金に群がって集まっているのではない。心から愛している人もいれば、友情を感じている人も、信頼をしている人もいる。もう自分の父親代わりなどしないでくれ。兄は兄として、ニコラスの人生を歩んでくれ、という弟からのプレゼントだった。
ニコラスは、生き延びたことでようやく理解する。
彼のダイブは、自分の人生に飛び込むという結果になった。
父が死んだ年齢と同じ48歳を機に、ニコラスは自らの人生を歩み出す。まさに誕生日なのである。

この”ゲーム”とは何なのか?
それは序盤にテーマが語られている。

ニコラス「どんなゲームなんだ?」
バーの客「ヨハネ第9章25節。《私は盲目であったが、今は見える》」

父性の問題とコンプレックス

『ファイト・クラブ』でも見え隠れするが、父親像というのにデヴィッド・フィンチャー監督はかなりこだわる印象がある。というか、フィンチャー監督にかぎらず、スピルバーグもクリストファー・ノーランも”父性の憧れ”というのを特に意識している。

それはなぜなのか?
アメリカは子供のいる世帯のうち、父親のいない世帯が3分の1を超えているらしい。
日本でも、およそ10分の1が父親不在の世帯なのだという。ただ日本の場合、父親がいても仕事が忙しくてほとんど家にいないという状況であればほぼ父親不在と変わらない。
だから、すれ違った父と子の和解の話は、共感し感動を呼ぶ構造になりやすいのだ。
クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』は、父と娘の和解の話で落ち着いた。『インセプション』も結局語りたいことは同じだった。スピルバーグ監督にしても似たようなテーマでたびたび描いている。

フィンチャー監督の父親は『ライフ』誌の支局長を務めた人物らしい。両親は共働きで、ジョージ・ルーカスなどが住む街で暮らしていくうちに、自然と映画監督を小さいころから目指したのだという。映画監督になることを反対されなかったらしいので、ある程度裕福な家庭で育ち、自由を許され、才能を伸ばすことができたのだろう。ただ、彼の根底に父親を超えたいという思いがあったのではないかと思う。ライフ誌はすでに潰れてしまったが、彼が子供時代の父親がいたライフ誌は最盛期の頃だったのではないかと考えられる。だから、バリバリ仕事をこなす父の雑誌が人目に触れ、賞賛されたりするのを間近にすると、尊敬と同時に嫉妬や対抗心が芽生える。

息子は、父親がライバルになる時期が必ずある。
エディプス・コンプレックスという概念だ。この説明についてはしないが、とにかく父というのが高い壁となって立ちはだかり、煩わしいというときがある。そして父に対抗し、父を超えたいと子は思う。だが、同時に父から愛されたいという欲求もある。だから、期待に応えようと、医者の息子は医者になるし、東大の息子は東大にはいろうとする。父が嫌いであっても、父から愛されたいという相反する欲求に、自分の人生の道から外れていく。
息子も父も根底には、打ち解け、和解し、褒め合い、笑い合いたいというのがある。それゆえに、人生の選択に戸惑いが生まれ(本当はこうしたいけど、父ならこうするのではないかみたいな)、歩みだしても迷ってばかりいる人がいる。

この映画の主人公ニコラスも、家族を残して、理由もなく自殺した父を理解できず、見捨てられたことできっと恨んでもいるが、父の形見の腕時計をはずさないというところに、相反する強烈な愛の欲求が見える。そして、なにより築いた財産を減らしてはいけないと怯えている。それゆえに、他人が見えない。信頼関係ということを知らない。
気になるのは、金の値上がりと値下がりだけ。
なぜそればかり注目するのかは、父と息子をつなぐバロメーターになっているからだ。減れば、愛は遠ざかり、増えれば結びつきが強くなるとでも考えているのではないだろうか。お金が、父と息子をつなぐ唯一のものだと信じている。

こういうのに取り憑かれているままだと、本当の人生を楽しむことはできない。
父は父、子は子。他人は他人。
自分の人生を歩めば、人生は楽しくなる、というのがこの映画で言いたいことなのだろう。

あなたは自分の人生を歩んでいますか?
誰かの人生を歩んでいませんか?

人生は一度きり。リハーサルなしのぶっつけ本番。誰かのために生きてるのはもったいない。
あなたも自分の人生にダイブせよ!
そんなことを訴えかけてくる映画だった。
この人生をゲームのように楽しんでください。

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