第9地区 ネタバレあり感想&映画脚本分析

第9地区
上映時間 111分

監督:ニール・ブロムカンプ
脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル

ヴィカス (シャールト・コプリー)
クーバス大佐 (デヴィッド・ジェームズ)
クリストファー (エイリアン・父エビ)
オビサンジョ (ユージーン・クンバニワ)

ログラインは、地球難民のエイリアンたちを第9地区から強制移住させる責任者になったヴィカスが、感染してしまい、自分の体のエイリアン化を阻止できるある液体を取り戻すため、クリストファーというエイリアンと共に人間たちと戦う話。

ログライン上では分かりにくいですが、この映画はアパルトヘイト政策をメタファーに描いています。その知識がないとわからないという作品では決してありません。

アパルトヘイト政策とは、簡単にいうと、人種隔離政策。白人による白人優位のための人種差別政策です。当時、南アフリカの市中心部に第6地区があり、白人も黒人も一緒に住んでいたが、ある日突然、法律で黒人は強制移住をさせられることになった。白人だけが選挙権を持ち、勝手に法律を決めて、黒人たちの住み慣れた街や家をぶっこわし、彼らを郊外の居住区へ追いやった。
それを白人は人間、白人以外はエイリアンというメタファーを用いて描いたというわけです。つまり、ある液体を取り戻すとは人権や権利、人間としての尊厳を取り戻すということともいえるでしょう。

もし単純に、白人が黒人と一緒になって戦い、黒人の権利を勝ち取ったという映画を作ってしまうと、いかにも白人がいいことしたみたいになるので、商業的に望めず、逆にしらけるでしょう。そんなものは、もはやまやかしだとすぐに気づかれしまいますから……

映画というのは怖いもので、一方的な思想や価値観をぶつけ続けることができる。2時間もあれば、観客を洗脳できる恐れがある。しかし、第9地区はそういった偏りみたいな感情をうまくコントロールし、観客を納得させ、面白いと感じさせる映画です。

さて、なぜそんなメッセージ性が強いはずの映画が成功できたのか、分析していきたいと思います。

第9地区 district9

<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>

エイリアンの管理を任された超国家組織、MNUにヴィカスがいます。そして奥さんの父親が彼の上司で、ムコ殿の晴れ舞台のために、第9地区にいるエイリアンを人間がいない第10地区へ強制移住させる責任者として任命されたことから話が始まる。

SFは入り口が大事!

SFの場合、その世界観にできるだけ早く観客を誘導しなければならない。多くは、冒頭に設定を説明する。そのやり方は様々だが、この映画はドキュメンタリータッチで見せた。映画を見ながら、ドキュメンタリー特有の制作側の価値観を観客に植えつけていく手法だ。

話はそれるが、”全聾(ろう)の作曲家”といわれ、“現代のベートーヴェン”とも評された人物がいたが、それは全て嘘だったと暴露される事件があった。暴露される以前に、彼のドキュメンタリーが各局で制作された。それを見て、感動する視聴者がいた。彼のCDを求める客も増えただろう。視聴者は彼の嘘に気づけなかった。それは当然だ。
では、制作側はどうだろう。否定しているが、もし気づいていたら……。何百時間もテープを回し、時間と労力、金を失いたくないと考えれば、本当は耳が聞こえるという彼の事実は、制作上、不都合な真実だ。商品にならない。商品にしたかったらどうするか。意図的にその不都合な部分を削除してしまえばいい。

ドキュメンタリーは、真実の映像だと思い込んでいる人が多くいるが、そこには制作側の都合がかなり紛れていることを忘れないほうがいい。作り手が、そうなってほしい、そうあってほしいと望む結果だけを切り取ってしまえば、真実は歪み、歴史なんていくらでも書き換えられてしまうのである。
地球温暖化について問題提起した『不都合な真実』という映画があるが、あれこそ不都合な真実の真実を学ぶと面白い。なぜあのタイミングで映画は作られたのか、など考えると意外に面白い事実に気づくことがある。

制作者は、観客の感情を自由にコントロールすることは簡単だと実は考えている。受け手である観客は、そこらへんをわきまえていたほうがいい。それは報道でも同じである。作り手の意図がどこからあるのか考えることをすすめる。

脚本家は、観客の感情を簡単にコントロールできる?!

話を戻す。しかしなぜそんな話をするのかというと、この映画はその観客の感情を実にうまくひっくり返すことに成功した。それがこの映画の成功だからだ。映画の醍醐味でもある。

ヴィカスは人間だ。だから私たち観客は、ヴィカスに容易に感情移入できる。オリンピックを見ていれば、自国の選手を理由なく応援するのと同じ理屈だ。
一方の敵であるエイリアンは、エビに似ていて気持ち悪い。嫌悪感を与える。さらに粗暴で、不衛生で、言葉も伝わりにくく厄介な存在。暴動で人間が死ぬ場面には、怒りさえ沸く。彼らを差別用語で”エビ”と呼び、徹底的に嫌悪する存在であることを強調させる。エイリアンを排除し、強制移住させることは正義であるようにみせる。

これが、一方的な視点だ。それをほんの10分足らずで観客に植えつける。
通常のSFはその視点で語られる。敵は絶対の悪であるという価値観を観客と共有し、悪を倒すことにカタルシスを感じる。それを強調させる役割が、エイリアンを排除したい、殺そうと考える傭兵のクーバス大佐だ。思うように従わないエイリアンを前に、クーバスの武力は頼らざる得ない。ヴィカス自身、痛い目にも遭えば、エイリアンは人間にとって驚異な存在であるという不安が増大し、エスカレートする。

しかし、その不安以上の危機にヴィカスは見舞われる……
クリストファーという頭のいいエビが、自分たちの星に帰るため、その燃料である液体を20年かけて集めていた。ところが、ヴィカスに発見され、彼が容器を開けてしまう。噴出した液体を吸い込み、ヴィカスはエイリアンに感染しまう。
これは、ヴィカスにとっても、クリストファーにとっても不運な出来事だ。この時点では、まだ私たちの感情はヴィカスにある。どうしたらそのエイリアン化を食い止められるか?というとこが、この話のひっぱりになると考える。

ところがここでうまいのが、子エビの出現である。クリストファーの息子は、ちょっと愛嬌があり、かわいい。人間の子供と変わらない。違うのは外見だけだ。
この映画が感情をひっくり返すことに成功したのは、エイリアン側の感情に観客を気づかせたことだ。単純に子エビがかわいいからではない。エイリアンにも親子関係があることを観客が知ったからだ。だからエイリアン側にも感情移入することができた。

何を言いたいかというと、先述したドキュメンタリーの話と同じで、不都合な部分を隠せば、その部分を知ることはなく、その部分に想いを馳せることはできない。しかし、知らなかったことを知ってしまうと、一気に人の感情は揺れるのである。
観客の感情をコントロールする方法は、知らない人を知らせると観客は感情が揺らぐことを覚えておこう!

政治的、社会的なテーマはメタファーが効果的

なぜ、エイリアン側に感情移入させる方法を用いたのか。
それはこの映画のテーマである、差別がなぜ生まれるのかという根本に立ち返るためだと思う。
人は、知らないもの、想像がつかないことに、恐怖と嫌悪という感情を抱く。それは人類の防衛本能として備わっているから仕方ないところもある。

一方で、知らないものを神秘と考える人間がいる。それがナイジェリア地区にいるギャングのボス、オビサンジョだ。彼は、エイリアンの好物である猫缶を法外な値段で売り、彼らの優れた武器を集めている。しかし、エイリアンの武器は使いこなすことができないので、ますますエイリアンに興味がある。彼らの肉を食ったり、血を飲んだりして、むしろエイリアンになりたいと考える。鬼畜で凶暴なギャングではあるが、差別がそこにはないのが面白い皮肉だ。

ただ、この映画は差別だけが問題ではない。差別の裏には、もっとひどいことを考える輩がいるということ。MNUの本当の目的は、差別を利用して、エイリアンの武器を集めることだ。そして半分人間で、半分エイリアンのヴィカスを世界一価値のある商品と言い捨てる。
人間というのは、莫大な利益が目の前にあると、底抜けに危険な方へ流れる。人間と評しているが、おそらくこの場合、白人ということなのだろう。当時も差別の裏に大きな利益が隠されていたと思う。

こんなことを、もし白人vs黒人ではっきりと描いてしまったら伝わるものも伝わらない。真実だと表現しても受け入れることはできない人種もいる。だからメタファーが必要だった。

今後、メタファーを利用した政治的、社会的テーマを扱った映画が増えるかもしれない。意外にその方が、この映画のように観客はすんなり深部に伝わるのである。

ヒーローの弱点を作れ!

SFにおいて効果的な主人公の追い込み方は、主人公の弱点をつくこと。
ヒーローにはヒロインがセットだ。たいていSFは、ヒーローが、人類の危機を救い、ヒロインを敵から取り返すという作りをする。1つを救うためにヒーローが作られるべきではない。必ず、宝と女をゲットして終わらないと後味が悪い。単純にいえば、男は助けたい、女は助けられたい、という欲求を満たさないと観客のカタルシスに繋がらない。
だからSFはいつもヒロインが危機になる。むしろ危機に飛び込んでいく。なぜなら、ヒーローの真の力を引き出すために必要だから。
あるいは、ヒロインと結ばれない要因を作る。それがないとSFはハラハラしにくく、応援もしにくい。そしてなにより、SFは設定の説明で観客の頭を使うので、人間関係においてはかなりシンプルに分かりやすくした方がいい。
ヴィカスに、もし愛する妻がいなかったら、別に彼がエイリアンになってしまっても構わないわけだ。彼は妻に会いたい一心で、わずかな望みのために、クリストファーと一緒になって人間と戦い、液体を取り戻そうと奮闘する。だから観客は応援できる。

第9地区は映画作りにはかなり勉強になる作品です。何度も何度も見返そう!

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