トイ・ストーリー3 ネタバレあり感想&映画脚本分析
作品紹介
トイ・ストーリー3 (2010年公開)
上映時間 103分
監督:リー・アンクリッチ
原案:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ
脚本:マイケル・アーント
ログラインは、17歳になったアンディが大学の寮へ引っ越すことになり、ウッディ以外のおもちゃたちは手違いでゴミに出されてしまう。彼らはアンディに捨てられたと思い、寄付される保育園の箱へ自ら移り、保育園で暮らすことになるのだが、そこはロッツォという独裁者がおもちゃたちを管理している劣悪な環境だった。それを知ったウッディが彼らを救出に向かう。その後、おもちゃたちの進退はどうなるのか・・・という話。
トイ・ストーリー3は、脚本チームで合宿し、ストーリーの基本的なアイディアを色々出し合った後、監督とマイケル・アーントで約3年の月日をかけ、脚本を精査したそうです。
マイケル・アーントは、新「スター・ウォーズ」の脚本を執筆する脚本家。「リトル・ミス・サンシャイン」も執筆しているうまい脚本家です。
<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>
予想を上回る結末を用意する
パート1、2でつちかったストーリーの良いところを凝縮したのが、トイ・ストーリー3だと思います。
3だけでも楽しめると思いますが、トイ・ストーリーは是非1から観て欲しい作品。
アンディの成長とともに、1〜3の公開年月が作中で経っています。
トイ・ストーリーは、さまざまな世代向けにいろいろ入り組んだ作りをしているのですが、『おもちゃたちにとって最悪はなにか?』というのをまず提示されるので見やすくなっています。
パート3では、すでに前作で予期していたアンディの成長、それに伴うおもちゃの進退問題がテーマ。
観客は、ウッディたちがどんな結末を迎えるのか。そこに注目し、期待して観ることができます。
パート1と2の結末は、アンディのもとへ戻るというのが一つの大きなゴールとして用意されていましたが、3ではそれがゴールになりえない状況にある。戻ってもアンディが家にいない。それでどんなハッピーな結末を迎えることができるのか。
パート3のストーリーを作るとき、まず超えなきゃいけない一番大きなハードルだったはずです。
ウッディとバズたちは離れ離れ(ウッディはアンディのもとで、バズたちは屋根裏)になってしまっていいのか。
彼らが一緒にいれたとしても、アンディと一緒なのか。
アンディと別れるなら、おもちゃたちはどこへ行くのか。
観客も作り手も納得できる結末でなければ、このパート3は成立しなかった。
そこに満足できたので、トイ・ストーリー3は傑作と言われるのだと思います。
それにしても、おもちゃたちが、成長した子供に飽きられるということを理解し、覚悟を持っているという序盤の展開から若干切なさを感じさせる。
観客は、特に大人の方は、そこに自分の過去を重ねてしまうのではないだろうか。
昔遊んでいたおもちゃをどんなふうに自分は処分しただろうか。
まったく記憶になくて、愛情がなかったことに気付かされると胸が痛くなります。
それでもウッディたちは健気なまでに対策を練る。
きっと屋根裏部屋だろう、そしていつかまたアンディの子供でもできたら遊んでくれるだろう、なんて期待している。
「電池を持ったか?」とか会議してる場面はおもしろかった。
そして、彼らにとって最悪なのは捨てられること。
これを観客に伝える。
おもちゃたちは、それだけは避けたいのだけれど、トイ・ストーリーではほぼお決まりで、逆展開が用意されている。
手違いで、おもちゃたちは捨てられてしまった。
ウッディだけがアンディのもとに残った。
今までなら救出し、アンディのもとへ、でよかったが、今回はそうはいかない。
救出しても、さてどうするの? 彼らはどこへ行くの?
これらがわからないと、観客もどう見ていいのか戸惑ってしまう。
『アンディのそばで、みんなが一緒にいること』が、おもちゃたちにとってベストでハッピーだったけれど、今回は、そのベストな結末の半分が削がれてる状態。
結末は、おもちゃみんなで一緒にいることは絶対として、アンディのそばにいられるのは叶わないのだから、アンディと同等か、あるいはそれを超える何かを見つけなければいけなかった。
結末では、観客をいい意味で裏切り、かつ、その道のりは夢中にさせる。
そんな映画は容易に作れませんが、トイ・ストーリー3でやってのけてしまったわけです。
宿命は避けられないが、運命は選べる
時が経てば、子供はおもちゃで遊ばなくなる。
それが宿命だとするなら、その後の運命は選択できるというのが、我々観客へのメッセージだったと思います。
トイ・ストーリーは、現実社会のわたしたちの実情と重ねて鑑賞ができる。
今回のおもちゃたちの去就は、社会人の我々にも身につまされる。
社会人であればどこかのグループに属し、守られ、グループに貢献し、与えている。
その需要と供給が合致して、自分の存在価値を確かめたりしている。
おもちゃも同じ。持ち主がいて、彼らに大切にされ、おもちゃは彼らを楽しませる。これがあって、おもちゃの存在価値があった。
けれど、宿命として必要とされなくなる時がくる。
我々もそういう時が必ず訪れる。
そのとき、やはりウッディたち同様、不安になるだろう。
かつての仲間は去り、自分だけ残るという場面もある。その逆だってある。
けれど、その先の人生に選択肢がないわけではない。選択肢の中から最善なものを選ぶ権利が誰にだってある。
ただ、感情に任せて、何も考えずに自分が助かることだけを望むと、あの保育園のような間違った選択もしてしまう。
大切なのは何かということ。
これを我々もその時がくるまでにきちんと見つけておくこと。
必ずどこかで誰かがあなたの力を必要とし、あるいは存在を必要としてくれるところがある。
屋根裏部屋でいつか必要とされるのを待つのではなく、必要とある場所へ飛び込む。
そのときは、今までの持ち主(雇い主)に愛情を持って送り出されるような存在でいよう。
そんなことを重ねて観ていると、泣けてくるのである。
また、全シリーズを通し、困難を仲間と共に、諦めずに全力で乗り切る。この姿に感銘を受けた。
それはまるでピクサーの組織、脚本家チームの働きぶりと重なる。
そして何より、子供たちを楽しませるという本気が、ウッディたちに乗り移り、我々観客の心を奮い立たせた。
ピクサーポリシーである“Story is King.” そのストーリー作りの真摯さも含めて、脚本の素晴らしさがわかる作品だったと思います。