ブルーバレンタイン ネタバレあり感想&映画脚本分析
作品紹介
ブルーバレンタイン
上映時間 114分
監督:デレク・シアンフランス
脚本:デレク・シアンフランス、ジョーイ・カーティス、カミーユ・ドラヴィーニュ
ディーン (ライアン・ゴズリング)
シンディ (ミシェル・ウィリアムズ)
フランキー (フェイス・ワディッカ) シンディの娘
ボビー (マイク・ヴォーゲル) シンディの元カレ
ログラインは、運命的な出会いをし、恋に落ち、結婚した2人が、結婚6年目を迎え、離婚に至る2日間の話。
この恋愛映画が切ないのは、出会いから結婚までの愛を築く話と、その2人が離婚してしまう2日間を交互に対比させながらラストへ向かう構成に胸がしめつけられていく。
映画において、構成の重要性がよくわかる映画になっている。
また、構成を丁寧に作り上げた作品は、初めて観たときと2回目、3回目観たときの印象が変わることに気付かされる。
映画館で観たとき、男(ディーン)はバカだな。いつまで怠慢で子供でいる気だ。そりゃ奥さんの愛想が尽きるよ、なんてのんきな感想を持った。女(シンディ)に同情したが、2回目、3回目以降はまったく逆転してしまった。どう感じたか、分析しつつ感想を述べたい。
<鑑賞済みの方を対象にネタバレありで語っていきますので、見ていない方はご覧になってからがいいかと思います>
ストーリーの主観は誰だったのか?
この映画の結論としては、どちらが悪いと語れる話ではない。
バランスよく夫婦の事情が描かれていると思う。
で、どっちを主観にして語るほうがラクか言えば、妻シンディの側だろう。
こんな夫はもう嫌なの、という側(感情側)に立ったほうが説明がつきやすく語りやすい。
だから、初見のときに、シンディが気の毒だと感じた。
ややアル中気味でほとんど仕事せず、妻の変化を察しない夫。いいところは冗談好きで家族思いで娘と遊ぶところか。そこだけは出会った時と変わらず堅持していて唯一の救いだ、なんて思った。
こういう感想を感じるのは、常日頃女性側から聞くありふれた離婚話に慣れているからかもしれない。
だが改めて見直すと、ディーンは結局、妻から何の説明もなく、「もう限界だ」という妻の叫びで関係修復を諦めて終わる。
彼の側に立つと、何がダメなのか本当にわからなかったのではないかと気の毒に思うようになった。
しかし観客は、シンディが嫌になる軌跡を知ることをできるから、彼女側の気持ちを理解できる。
一方、ディーンは知らないまま離婚に至っている。
であるから、ディーンの弁護に立ったつもりで、シンディの性質(本質)を分析していく。
彼女は厳格な、というか家族内において支配的な(モラハラな)父のもと、母が屈服する姿を見ながら成長した。
シンディは、そのせいで愛がどういうものなのか知らない。わからない。
そこで、祖母に「愛はどんな感じか」と尋ねる。
ところが、祖母自身も似たような支配的な夫と生活していたので、「私はまだ見つけてない」と答える。ただし、忠告をした。
「気をつけなさい。よく選ぶのよ。恋に落ちる相手が、あなたにふさわしいか」
しかし、シンディはまったくその忠告を聞いていない。
次の場面に出てくるのが、大学時代の彼氏ボビーとのスポーツでもしているかのようなセックスだ。そして中に出されてしまうという、単なる性の処理扱いを受けている。
そういう体験を、彼女は13歳から始まって、20〜25人くらいまたはそれ以上と把握できないくらい経験し、やっとディーンという愛を感じられる人と出会う。
彼女は、ディーンと出会うまで、まともに愛を感じられる恋愛の成功体験を経験してこなかったのだとわかる。
そして、ディーンと結ばれる過程もちょっと彼の立場に立つと酷だと思う。
ディーンは、男を試されるような場面がよく出てくる。
男とは、プライドの生き物だ。そこを刺激するのが、シンディはおそらく先天的にうまい。
たとえばどんなところかというと、ディーンと出会い、恋に落ちた2人に待っていたのがあの望まない妊娠。もちろんディーンの子ではなく、ボビーの子をシンディはタイミング悪く授かった。
彼女は、思いつめた顔でディーンのもとを訪れる。だが自ら何も語ろうとせず、でも聞いて欲しいような態度をちらつかせる。それに誘われるように、気になって仕方がないディーンが橋から飛び降りようとして聞き出そうとする。
すると、シンディは「妊娠したの!」と叫んだ。
ディーンは、「これからどうするの?」「産むの、産まないの?」と尋ねると、シンディは自分のことなのに「わからない」と答える。ディーンだってショックだ。突然告げられ、混乱もある。明確な将来を示すことができないでいると、シンディはなぜか逆ギレ状態で去っていく。
ちょっと待ってくれと、ディーン側に立つと思わないだろうか。
彼女は何を期待して彼に会いに来たのだろうか。
それは、自分で決断をするのは嫌だから、彼に未来を決断して欲しかったのだ。
その決断とは、子供を産み、彼と家族になることだったのだろう。
彼から「中絶しろ」などという言葉を望んでいたとは考えられない。もしそう思い、彼を愛していたならば、告げずに処置するだろうし、産みたいのであれば彼を苦しめないために去るという選択肢があってもいい。また、そのお腹の子の父親であるボビーとの関係修復を望んだり、ある程度整理してから彼に相談しに現れるのが、愛するということではないか。
しかし、彼女は迷わず彼に会いに行く。そのせいで、ディーンがボビーからボコられるという意味不明な報復を受ける。
彼女の考えの側に立つと、愛しているなら許されるという考えがあったのではないかと思う。
だが逆の展開だったらどうだろう。男が子供をはらむことはできないので難しいが、たとえば元カノとの間で子供を作り、何の整理もせずに、でも愛しているから君のところへ来たという男を簡単に受け入れられるだろうか。
結局、手術を取りやめる寸前までシンディは本音を隠し、最後は彼に「家族になろう」と言わせることができた。男として、その決断しかできないところまで追い込み、そうして結婚につながった。
では、離婚に至る経緯はどうか。離婚も構図は同じなのだ。
終始、暗い顔をして、ディーンが口を開けばため息を漏らし、察しない男をただ睨みつける。
彼女はまったく説明しないが、夫に何を言わせようとしているのかは感じる。それは、
「離婚しよう。お前とはもう一緒にいられない」と彼に言わせたい。
彼女は再び、彼に未来を決断させようとしている。
問題は彼女が作り、回答と責任を夫に任せようとする。
遠回しな言い方をして、彼の男としてのプライドをくすぐり、彼に言わせようとする場面がおもしろい。
「何かしないの?」「何かやりたいことはないの?」「あなたはいろいろ得意でしょ。その気になれば何でもできる。他にやりたいことは?」
こんな挑発的なことを夫にぶつけて、本音では彼女はこう思ってるのではないか。
(私といると、何もできないんじゃない?)(私と結婚しないほうがよかったわよ、夫婦関係はもうやめましょうよ)
そう彼の方から言わせたいが、ディーンはまったく期待とは裏腹なことを告げる。
「誰かの夫になりたかったわけじゃない。大事なのは家族だ」
しかしシンディは「失望しない?才能を利用せず生きてることに」とプライドをくすぐる。だが、
ディーンは「才能って何?」と聞くと、彼女は「歌とか絵とか、ダンスとか」と言った。
完全に馬鹿にしてる。それは才能ではない。そんなことはディーン自身がよくわかってる。そんなもので食っていけるはずがないし、禿げ上がった年齢からはじめられることでもない。
彼女は、夫に別れを決断させるために、ありとあらゆる方法をつかう。
このように、決断と責任はいつも男任せの態度とズルさがシンディにはあり、ディーンがとても気の毒に感じるようになった。
夫婦の話だが、この家族のゴール(目的)はなんだったのか?
シンディは離婚一直線。とにかく夫はもう嫌なのだ。
それはよくわかったが、その先になにがあるのか。
このシンディの「もう嫌だ」と思ったら、話したくない、触れられたくない、相手の存在が目の前から消えて欲しいというのは大学時代から変わらない彼女の性質だ。
元カレのボビーも同じ目にあっている。その怒りの矛先をディーンに向けた。
そしてディーンもシンディにちょっかいを出す医者に向かった。
彼女は、次の安住の地が見つかると移り気になる。
結局、始まりから終わりまで、愛にさまよったままなのだ。祖母と同じで、愛を見つけられない。
こういう女性に振り回されると、追い詰められた男性がおかしくなるのは当然だ。
彼女に明確なゴールはない。
シンディという女性は結局なにしても不満な人生なのだと思う。
医学の道へ進む将来を希望しながら、どうでもいい男とセックスをして、子供を妊娠し、キャリアが閉ざされた。
愛だと思って結婚し、子供が生まれると、現実的な生活に追われていくうち、ディーンが運命の相手ではなかったと考えだす。
そして諦めきれず、なんとか資格を取り、看護師として働くうちに、医者という生活が安定した人間に出会い、彼から引き抜きの話があり、それに早く飛びつきたい一心で、お荷物のディーンを排除しようとする。
彼女はもう決めている。
これ以上の家族の継続よりも、キャリアと新しい男性との恋を期待している。ディーンを完全に見限った。
これについては、すでに若い時代、ディーンは予言している。
「女は男を値踏みし、選り好みする。王子様を待ち続けるが、結局、選ぶのは稼ぎのいい男さ」
シンディの中で、次の相手は医者にしようと決めたのだと思う。夫が彼に勝るところが何一つない。それなら一緒にいる必要がない。そう思ったらどんどん嫌になっていった。
だが皮肉なことに、医者は単なるカラダ目当てだと気づくのだが、そんなことは彼女もわかっていたのではないか。
重要なのは、不満のある現状から抜け出すことだった。
どん底の自分を救ってくれるわずかな望みがある人なら誰でもよかったのかもしれない。
女性は、相手が変わることで、変身(生まれ変わること)ができる性質があるらしい。
また、どん底の女は、心理学的にも落ちやすいことが証明されているという。
多くの女性は、シンデレラストーリーを好むから、絶望やどん底のときほど、いつか私を救い出してくれる人が現れると錯覚し、追い求め、少しでも現状よりいいとそちらへ移動する。
(詳しくは、察しない男 説明しない女 / 五百田達成 (著)に書いてあるので参照した)
が、たとえ落ちやすくても、こういう女性に手を出すのはかなりリスキーだと思う。
男の場合も同様。うまくいっていない男に手を出さないほうがいい。
しかし、これは男女だけの問題ではない。彼らは家族を形成している。フランキーという娘がいる。
たしかに、ディーンは怠け者かもしれないが、家族を大事にしている。血のつながりがない娘を我が子のように愛している。
「子供をつくろう」というセリフが結婚6年目に出るというのは、もしかしたら娘のために異父姉弟を避けていたのかもしれない。
だから最後まで、ディーンは離婚したいと訴える妻に粘る。
「娘のことも考えないと。俺が悪い。言うとおりに直すから」泣いて訴えても妻は聞き入れない。
「別れるしかない」とついに彼に告げる。
この家族のゴールは何だったのだろうか、と思わざる得ない。
ディーンが直すことも許されず、娘のためを思うことも許されない。
シンディの言い分は、「傷つけ合う親を見せたくない」というのだが、本音だろうかと疑いたくなる。
なにより、本当に子供のためなのだろうか。
父という病 (ポプラ新書)に、
<母性的な父親は、攻撃性や行動力には欠け、穏やかで落ち着いた生活を好む。家庭に関心が高い父親は、社会的成功という点では、そうでない父親よりも劣っているという皮肉な結果が示された。その一方で、子供の良好な学業成績や社会的成功には、父親の関心や関与が重要だということが、他の研究で示されている。子供にとっては、父親の社会的な成功よりも、自分が必要としてくれるときに関わってくれる事のほうが重要>と研究結果があるらしい。
そうであるなら、フランキーにとって離婚という夫婦の選択はどうだったのか、と考えさせられる。
おそらくフランキーはこの後、大好きな父親不在で、不安定な精神状態に陥る。シンディは選択した人生を否定したくないので、過去の男よりいい男を探し愛にさまよう。それを近くで見せられる娘とはおそらく対立する。女同士のほうがそこらへんは厳しいからだ。
しかし、フランキーも結局、愛にさまようことになる。そして母のような人生を歩み、社会的成功もしないかもしれない。
と、なった場合、何のための離婚だったのか。
ただ嫌になったという感情が制御できない妻は、嫌になった理由も説明もせず、夫に変わるチャンスも与えないのは娘のためだったのかと首を傾げたくなる。
だが、妻はもっと前から夫に不満をつのらせていて、我慢しながらシグナルを発していた。それを夫が、妻の気持ちを察しなかったのが問題で、もっと早くに気づいていればよかったのだ、男が甘い、とワイドショーのコメンテーターばりに一言で断罪してしまえば、まあ、それまでなのだろう。
現代は、その論理のほうが納得しやすいのかもしれない。男もそう納得したほうが円満だと考えている節がある。女の気持ちを理解していると装う男は最近多くて気持ちが悪い。
しかし、この映画では、どちらが悪いとも甘かったとも言いたくない。
結論はない。
だが教訓として映画から見えてきたのは、結婚をすると妻は変わるが、夫は変わらないということだろう。それは結婚するとき、お互いに忘れないほうがいい。